風のローレライ
第3楽章 風の涙
1 武本先生
夜、平河に送ってもらって、メッシュの家に行った。
エレベーターを降りると、わたしは田中家の玄関の前で、呼び鈴を鳴らそうか迷っていた。
夏海さん達は、おいでと言ってくれたけど……。ほんとは迷惑なんじゃないだろうか?
瞬かない光の灯ったオブジェが、わたしを拒むように、横長の窓枠に絡み付いてる。
やっぱり戻ろう。
でも、どこへ……?
わたしがそこを離れようとした時、エレベーターが開いて皐月さんが降りて来た。
「よぉ! キラちゃん。お帰り! そんなとこで何してんの? さっさと入りなよ」
「でも……」
「何だ。遠慮してたのか? 平気だよ。みんな歓迎してんだから……」
彼女は、暗証番号を押してドアを開けた。
「ただいま! そこにキラちゃんもいたから連れて来たよ」
「お帰り!」
夏海さんと楓さんがそろって出て来た。
リビングでは、メッシュが雑誌を読んでいて、ちらっとわたしを見たけど、すぐにまた続きを読み始めた。
「紅茶飲む?」
「クッキーもあるよ」
二人の賑やかなおしゃべりが楽しくて、わたしはいやな風のことなんか、すっかり忘れてしまった。
「ねえねえ、中学ってどう?」
「担任は誰?」
楓さんと夏海さんが交互に質問する。
「担任は吉野先生だけど……」
「吉野だって? あちゃあ、かわいそう!」
夏海さんが言う。
「あいつ、すごいえこひいきだから……」
楓さんも気の毒そうな顔をした。
そうなんだ。何か感じ悪いとは思ったけど……。
「そういえば、リッキーの姉ちゃんが3年の時、担任持たれて最悪だって言ってたな」
メッシュが珍しく会話に割り込んで来て言った。
「それってほんと、かわいそう!」
楓さんも夏海さんもひどく同情したように言う。
「あいつの姉ちゃんって、頭いいんだけど、ちょっと太っててさ。それを吉野の奴、性格がだらしないからだとか言って、みんなの前でさらしたり、平気で暴言吐いたりしてたらしい」
メッシュの言葉に、お姉さん達も怒って言った。
「ヒドーイ!」
「先生のくせに最低過ぎる!」
「それだけじゃないんだぜ」
彼が言った。
「進路指導が滅茶苦茶でさ。育美(いくみ)さんは宮坂高校に行きたかったらしいんだけど、吉野が勝手に願書を藤の花高校に出しちまったんだ」
「えーっ? 何それ! 有り得ない! 勝手に願書出すなんて……!」
夏海さんが驚いて言う。
「でもさ、宮坂高校って男子校じゃなかったっけ?」
楓さんが訊く。
「うん。でも、今年から共学になったんだ」
「へえ、そうなんだ」
双子がうなずく。
宮坂高校って平河が行ってる学校だ。そうか。そんなら、わたしもそこに行けば、あいつといっしょに……。
ちょっとだけそんな考えが頭をよぎった。
でも、行けるわけないか。宮坂はエリート校だし、それに、うちはお金がないし……。
あったとしても、とても高校に進学なんてさせてもらえない。わかってるんだ。そんなこと……。
だけど、考えてみれば、わたしが高校に入る頃には、平河はとっくに卒業しちゃってる。
なんだ。それってバカみたい……。
でも、変なの。行けるはずもない高校のことで、こんな気持ちになるなんて……。
「それで、結局、育美さんは藤の花高校に行ったの?」
夏海さんが訊いた。
「ああ。でも、政界や財界の子息が多くて大変らしい」
「でも、リッキーのとこだって、そんなに悪くないよね?」
楓さんが訊く。
「そう。西崎んとこの下請け。でも、やっぱ宮坂に行った方が育美さんにとってはよかったんじゃないのかな? 藤の花って陰惨ないじめが横行してるって、リッキーが嘆いてたよ。奴の姉さん、大人しい性格だから、ターゲットにされてるらしい」
そういえば、この制服、リッキーのお姉さんが着ていた物だったんだっけ。
そうなると、わたしにもぜんぜん関係のない話でもないし、何だかそのお姉さんがかわいそうに思えた。
「それでさ、耕作、あんたは進路どうすんの?」
着替えを終えた皐月姉さんが来て訊いた。
「さあね。おれ、高校なんて行く気しねえし……」
「馬鹿だね、あんた。ミュージシャンだって教養は必要なんだよ」
皐月さんがもっともらしく言う。
「必要なら大検受けるし……」
「大検って何?」
何のことだかわからないので、わたしは訊いた。
「ああ。高校とか行かなくても、その試験に合格すれば、大学受験する資格がもらえるんだ」
「へえ。そうなんだ」
メッシュって案外しっかりしてるんだ。
「でも、一人で勉強するのって大変だよ」
「そうそう。学校に通ってれば、授業で先生が教えてくれるけど、一人だとつい甘えが出ちゃうもんね」
夏海さんも楓さんも口をそろえる。
「一人って?」
わたしが言うと、彼は苦笑いして言った。
「おれ、中学になってからずっと、学校行ってないんだ」
「でも、中学でバンドとかやってたじゃん」
「裕也達とは幼馴染だから……。それに、あいつらは、おれの曲いいって認めてくれるし……」
「そうだったんだ」
でも、どうして登校拒否なんてしてるんだろう? メッシュって、特に問題なさそうなのに……。
そんなわたしの心を読んだみたいに彼が言った。
「姫百合中学には闇があるから……」
「闇?」
わたしは、思わずびくっとして訊いた。
「吉野もそうだけど、あそこの教師連中って、ろくでもないのばっかり集まってんだ。まるで変な宗教みたいなところがあってさ」
「宗教? でも、姫百合は公立の学校だし、先生だって数年ごとに転勤とかあるじゃん」
夏海さんが言った。
「そうなんだけど……。あそこに行くと、頭がおかしくなりそうなんだ。それで、行くのを止めた」
頭がおかしくなる……か。お姉さん達はばかばかしいと言って笑ったけど、わたしは、そうは思わなかった。
確かに、あの学校には闇がある。
それが何かはわからないけど、何かが狂っている。そんな気がする。
次の日。
学校に行くと、全校朝礼があって、校長先生が、昨日、事故で吉野先生が亡くなったと言った。
女子の何人かがすすり泣く声が聞こえた。
でも、わたしは泣けなかった。だって……。
――当然、学校や親にも通報するからな!
先生は、平河のこと……。
でも、吉野は死んだ。
だからもう、通報するなんてことはできなくなった。
よかった。わたしはほっとしていた。そう。本当に心からほっとしたんだ。
わたしの大切なものが傷付くくらいならばいっそ、わたしが傷付いた方がいい!
そうだよ!
――きっと電話しろよ
平河を傷付けるくらいなら……!
だって、あいつはエリート校に行ってる。
あんな奴のせいで……。ううん。わたしなんかのせいで、人生の落伍者なんかにはさせられない。
だって、彼は、わたしにやさしくしてくれた。
バイクに乗せてくれて……。そして……。
吉野は死んだ。
でも、悲しくなんかない。涙なんか出ない。
だって、あいつはいやな奴だから……。
でも……。
本当にそれでよかったのかな?
わたしだったら、あの事故を防ぐことができたかもしれない。
先生を助けられたかもしれない。
闇の風を払いさえすれば……。
でも……。
やっぱり、それはできなかった。
全員で黙祷したあとで、新しい担任の発表があった。
それは、美術の武本先生だ。
朝のホームルームに来た武本先生は吉野先生よりずっと若くて、やさしそうな人だった。
「僕が、今日からこのクラスの担任になった武本治(たけもと おさむ)です。とても悲しいことがあったばかりですけれど、みんなで支え合って、いいクラスを作って行きましょう」
その日の3、4時間目は武本先生の授業だった。
「じゃあ、前にプリントでお知らせした通り、今日は『わたしの一番好きな物』というテーマで絵を描いてもらうからね。みんな、色を塗る道具は持って来てくれたかな?」
先生が言った。
えっ? 何? わたしはそんなの知らなかった。
でも、周りの子達は色えんぴつとかクーピー、クレヨンなんかを机の上に出している。中には水彩絵の具の道具を持って来た子までいる。
「じゃ、始めて! 4時間目にはできた絵をみんなに見せながら、順番に自己紹介してもらうからね」
わたしは、絵を描く道具なんて何も持って来ていなかった。
どうしよう?
色を塗らないとだめなのかな?
わたしは、配られた画用紙を前にして、たった1本しかないえんぴつを握って考えていた。
「君は桑原さんだったよね? どうした? 色を塗る物、忘れちゃった?」
先生が来て言った。
「あ、はい。すみません」
わたしがうつむくと、先生はやさしく肩を叩いて言った。
「いいよ。気にしないで。色えんぴつを貸してあげよう」
先生は教卓に置いてあった箱を持って来てくれた。
「ありがとうございます」
わたしが言うと、先生はやさしく笑って囁いた。
「何か困ったことがあったら、いつでも相談してね。僕は君の味方だから……」
味方?
もしかして、この先生は、ほんとにいい人かもしれない。
武本先生はみんなに声を掛けて回っている。
体の弱い早苗ちゃんにも、無理はしなくていいからとやさしい言葉を掛けていた。
男子にも気軽に冗談を言ったり、マンガやゲームの話をしたりして楽しそうだ。
あの西崎でさえ、先生に、
「髪型、似合ってるね」
なんて言われて赤くなっている。
あんな奴に、やさしくすることなんかないのに……。
わたしは気に入らなかったけど、先生がこちらを見て笑い掛けたので、わたしは慌てて絵を描いてる振りをした。
うーん。何を描こうかな?
一番好きな物……か。
わたしは迷ったけど、やっぱりカスミソウの花を描くことにした。
――それにしてもよくわかったね。おれの好きな花がカスミソウだって……
「へえ。君は花が好きなの? いいね。僕もだよ。きっと君は心がとてもやさしいんだね」
緑の色えんぴつで葉っぱを塗っていると、また先生が来て言った。
「花の部分はね、輪郭にこの色で縁取ると、立体的な影ができて、美しく見えるんだよ」
先生に言われた通りに塗ると、本当にそこに花が咲いているように見えた。
わたしは、何だかすごくうれしかった。
できれば、この絵をマー坊のおばあさんにプレゼントしたいな。
お見舞いに持って行くお花が買えないなら、せめてこれくらい……。
でも、自己紹介が終わると、絵は提出しなければいけなかった。
わたしは、色えんぴつを先生に返した。
「いいんだよ。これは君が持っていても……」
「でも……」
「これは卒業生が置いて行った物だから……。君にあげる」
先生はそう言うと、片目をつぶって見せた。
先生は知っているのかな?
わたしが道具を持っていないこと……。
そう。小学校の時使っていた道具は、みんな家に置いて来てしまった。
それに、絵の具も色えんぴつも足りない色ばかりだ。
盗られたり、折られて使い物にならなくなってしまった物がたくさんあるから……。
第一、家には絶対帰りたくなかった。
「あの、先生、その絵のことなんですけど……」
わたしは、思い切って訊いてみた。その絵を返してもらえないかと……。
「どうして?」
武本先生は理由を尋ねた。
わたしは正直にわけを話した。
すると先生は黙ってその絵を渡してくれた。
「君は本当にやさしいんだね」
「そんなことありません。ただ、そのおばあさんには親切にしてもらったので……」
先生は笑顔でうなずくと、わたしの頭を撫でてくれた。
「いい子だね、君は……。本当にいい子だ」
何だかすごーく不思議な気がした。
今までそんな風にされたことなんて一度もなかったから……。
――いい子だね
風に乗って、その言葉が頭の中で、何度もリフレインした。
「キラちゃん、いっしょにお弁当食べよう?」
早苗ちゃんが言った。
お昼は好きな子同士で食べてもいいと、武本先生が言ったからだ。
「その代わり、先生も君達の仲間に混ぜてもらうからね」
先生は、各グループを順番に回ってそこでいっしょに食べると言った。
「それじゃあ、窓際の席から行きまーす! 今日は岩見沢さんと桑原さんのグループです。よろしくね!」
「あ、お願いします」
早苗ちゃんが言った。
わたしは少し困ってうつむいた。だって、お弁当……。
「あっ! しまった! 先生、手を洗って来るの忘れちゃった!」
みんながどっと笑った。
「ちょっと待ってて! 全速力で行って来るから……」
先生は笑いながら席を立って教室を出た。
「お弁当、今日はキラちゃんの分も作ってもらったから……。これを食べて」
早苗ちゃんが包みを出した。
「でも……」
「太巻き。わたしも少しだけお手伝いしたんだよ。ね? 食べて」
「ありがとう」
わたしが受け取ると、先生も戻って来て席に着いた。
「あーあ。お腹減っちゃったね。みんな、お待たせ! それじゃ、いただきまーす!」
先生が言った。
「先生、あいさつするの、日直さんの仕事」
男子が言った。
「あは。ごめん。先生、すごくお腹が空いてたもんだから……。それでは、あらためて日直さん、お願いします」
みんながまた一斉に笑う。
日直の伊勢原くんが元気よく立ち上がって、
「いただきます!」
と言うと、みんなも笑いながら、いただきますと言って、お弁当を食べ始めた。
「へえ。二人は手作りのおすしか。おいしそう! 先生は忙しいからコンビニ弁当だよ」
「そんなこと言って先生、ほんとは寝坊したんじゃないの?」
隣のグループの男子がからかうと、武本先生は頭を掻いて言った。
「あは。ばれちゃった? 実はそうなんだ」
武本先生は明るくて、どんな話でも興味を持って聞いてくれた。
「へえ。岩見沢さんは本が好きなのか。いいね。僕は『怪人二十面相』とかが好きなんだけど……。ちょっと古いかな?」
「いえ、そんなことありません。わたしも入院してた時、シリーズをたくさん読みました」
「そうか。それにしても君は偉いね。心臓の手術だなんて、とても怖かっただろうに……。勇気があるなあ。僕だったら、きっと怖くて泣いちゃうよ。君のような生徒、先生は尊敬しちゃうな。君ならきっと、この先どんなに辛いことがあっても、頑張って生きて行けると思うよ。先生は、ずっと君のこと応援してるからね」
「あ、ありがとうございます」
早苗ちゃんは、うれしそうだった。わたしもだ。
武本先生はほんとにいい人。世の中には、こんな大人もいるんだ。それがすごくうれしかった。
「それで、桑原さんは、将来何になりたいの?」
先生が訊いた。
「別に……。今はまだ、よくわかりません」
それが正直な気持ちだった。
「そうだよね。君達はまだ若いんだ。これからもっといろんな経験をして、それから決めても遅くはないよ。でも、先生は信じてるよ。君ならきっと、いい選択をするって……」
先生は、決して叱ったり、急かしたりすることもなかった。
そして、放課後。
わたしが昇降口で靴にはき替えていると、武本先生が来て言った。
「桑原さん、よかったらこれ、君が言ってたおばあさんに持って行って」
先生がくれたのは花の種だった。
「リンドウ?」
「もらい物なんだけど、僕にはうまく育てられないと思うから……」
「あ、ありがとうございます。きっと喜んでくれると思います」
袋には花の写真が付いていた。素朴でかわいい花だとわたしは思った。
マー坊のおばあさんに似合いそう。
「それからね、明日からは、お昼の前に職員室においで」
先生はにこにこしながら言った。
「お弁当、いつも岩見沢さんに分けてもらうのは、君だって心苦しいでしょう? 明日からは僕が買って来てあげるからね」
「でも……」
どうして先生がそんなことを言うのか、わたしにはわからなかった。
「心配しなくてもいいんだよ。僕は担任なんだから……。クラスに困っている子がいたら、助けてあげるのが役目なんだ」
先生はわたしの肩に手を置くと、そっと耳元でささやいた。
何でだろう? その瞬間、背中がぞくっと震えた。
わたしが慣れていないからだろうか?
人から親切にされることに慣れていないから、こんなに変な感じがするの?
「君、本当に可愛いね。今度、僕の家に来ないか? 遅れている勉強、たっぷり見てあげるよ」
唇が触れそうなほど、先生の顔が近くにあった。わたしは思わずあとずさりした。
「あ、あの、わたし、もう行かなくちゃ……。約束してるので……ごめんなさい!」
わたしは急いで昇降口を出た。それから、一直線に走って校門を出る。
いやだ。何なの? 怖い。闇の風もないのに……。
マー坊の家に行くと、おばあさんが玄関のそうじをしていた。
「もう、起きたりして大丈夫なんですか?」
「まあ、アキラちゃん。よく来てくれたねえ。この通り。もう、すっかり元気なのよ」
「おばあさん、わたし……」
何だかわからないけど、急に涙が出そうになった。
「さあ、中に入って。おいしい大福があるから……」
「でも……」
「さ、早く」
おばあさんがわたしの肩を抱いた。何だかすごくあったかい。わたしは言われるまま、家に上がった。
「若い人には大福なんて喜ばれないかもしれないけど、ここのお店のはね、あんこがとてもおいしいのよ」
きゅうすでお茶を注ぎながら言う。
「ありがとう。わたし、甘い物好きだからうれしいです」
そう。甘いお菓子なんて、誰かにもらわなきゃ食べれないもん。それは本当にすごくおいしかった。お茶は少し苦かったけど、ぜんぶ飲んだ。
「もっと食べる?」
「いいえ。もういいです」
わたしは、鞄の中から、丸めた絵を取り出して渡した。
「これ、お見舞いにと思って……」
「あらまあ。素敵な絵じゃない。アキラちゃんが描いたの?」
「はい」
「すごく上手ね。今にもお花の匂いが漂って来そう」
「そんなこと……」
わたしは恥ずかしかった。誰かに絵をほめられたことなんてなかったから……。
「早速、そこの壁に貼って、楽しませてもらうわね」
彼女は、とてもうれしそうだった。
「それと、これは担任の先生にもらったんですけど、お花の種」
わたしは武本先生にもらった種もあげた。
「まあ、リンドウね。これはお庭に植えましょう」
おばあさんが元気にしていたので、わたしもうれしくなった。
「ところで、アキラちゃん、おうちには帰ってるの?」
「いいえ」
わたしはうつむいた。
「そう」
その時、窓がかたかたと鳴った。風の音? まさか、闇の風……?
おばあさんが席を立って、そちらに近づいた。
ニャーン。
ネコの声がした。
「よしよし。待っておいでね」
おばあさんは戸棚からいくつか煮干しを出した。
そして、窓を開け、そのネコにやった。
ネコはごろごろと喉を鳴らして、それを食べた。
それは、大きなしましま模様のネコだった。
「トラって言うのよ」
おばあさんが教えてくれた。
「トラ……」
わたしはそっとそのネコを見た。
「おばあさんが飼ってるの?」
「いいえ。野良なんだけど……。ほんとはないしょなのよ。勝手に餌をやってはいけない決まりなの。でも、かわいそうじゃない? この子達だって生きてるんだものねえ」
そうだよ。トラもわたしも世の中から、はみ出してるかもしれないけど……。
ちゃんと生きてるんだ。ネコでも人間でもみんな同じ。
生きる権利があるんだよ。
勝手な都合で捨てられたり、殺されたりしてたまるもんか。
「なでてもいい?」
食べ終わって、毛づくろいを始めたトラを見て言った。
「ええ。たぶんね。アキラちゃんなら大丈夫よ」
そっと背中に触れてみた。ふわふわとしてやわらかい。トラは怒ったりしなかった。
「かわいい……」
でも、トラはすぐにブロック塀に飛び乗ると、行ってしまった。
「どこに行くんだろ?」
「また、別の家に行って餌をもらうんだよ。ああやって、あの子達は生き伸びているの」
それってまるで、わたしのことみたい……。こうして、おばあさんから大福をもらったり、メッシュの家で夕飯を食べさせてもらったりして、わたしはよその子として生きてる。
「ねえ、アキラちゃん、今夜はうちに泊まって行ってもいいんだよ。もしも、おうちに帰るのが辛いんなら……」
「ううん。大丈夫」
わたしは言った。
「今は、泊めてもらえる家があるの」
メッシュの家の人達が親切にしてくれていた。ずっと泊っていてもいいと言ってくれたんだ。
あそこなら、お姉さん達もいるし、お母さんもやさしい。
おばあさんだってやさしい人だけど、マー坊は女の子といっしょなんていやだろうし……。
「そこでは、みんながわたしのこと、大切にしてくれるから……」
「そうなの? そんならいいんだけど……」
わたしは、彼女にお礼を言うと玄関を出た。
その夜は、メッシュがギターを弾いて、お姉さん達とたくさん歌を歌った。
何だかすごく楽しい!
ここでは、毎日がパーティーみたいだ。
もう、どこを見回しても闇の風の気配なんかない。
最初に来た時、どうしてそんな感じがしたのか不思議なくらい。
わたしはもう、すっかりメッシュの家の子になったような気がしてうれしかった。
そして、次の日。学校に行くと、武本先生もいつもと変わらない調子で話し掛けて来た。
「桑原さん、昨日はおばあさんのお見舞いに行ったの?」
休み時間に廊下で会った時、先生が訊いた。
「はい。お花の種、とても喜んでくれました」
「そう。それはよかった。役に立ててもらえて、僕もうれしいよ」
そう言うと、先生は職員室に入って行った。
教室に戻ると、早苗ちゃんが来て言った。
「次、理科室だって……もう、みんな行っちゃったよ」
「そうなんだ。ごめん。待っててね。すぐ用意するから……」
わたしは急いで教科書とノートを持って廊下に出た。
「理科室ってことは、何か実験するのかな?」
早苗ちゃんが少し遅れたので、わたしは階段のところで立ち止まった。
「キラちゃん、ごめん。悪いけど先に行ってて……」
彼女が言った。
「どうしたの? 何だか顔色が悪いよ」
早苗ちゃんは青い顔をして壁に寄り掛かると、胸を押さえて下を向いた。
「大丈夫……。いつものことなの。軽い発作だから、少し休めばきっと……」
「早苗ちゃん!」
大丈夫なんかじゃないよ! 肩で息をして、すごく苦しそうだ。どうしよう。誰か……。
「どうしたんだ?」
わたし達の様子に気づいて、武本先生がかけつけて来た。
「先生! 早苗ちゃんが、発作を起こして……!」
わたしは泣きたくなるのをがまんして言った。
「薬は?」
「ブレザーのポケットに……」
早苗ちゃんが答える。
先生はてきぱきと必要な情報を聞き出すとすぐに行動に移った。
「桑原さん、君は保健室に行って、養護の岸谷(きしたに)先生を呼んで来て! 僕は岩見沢さんに薬を飲ませて連れて行くから……。それと、必要があれば、救急車を呼んでもらうかもしれないからと伝えといて!」
「わかりました」
わたしは急いで廊下を走って保健室に行った。途中で富田に会って睨みつけられたけど気にしない。それどころじゃないよ! 早苗ちゃんが……死んじゃうかもしれない! 心臓が悪いと聞いてはいたけど、こんな……急に発作が起きて、すごく苦しそうで、いやだ! そんなのかわいそう!
保健室の戸をノックすると、白衣を着た女の先生が出て来た。その顔を見て、わたしは驚いた。
彼女は、雨の日、富田に迫られていた、あの女の人だったからだ。
彼女もわたしだと気がついて、少し戸惑った顔をした。
でも、今はそれどころじゃない!
「すぐに来てください! 岩見沢さんが心臓の発作を起こして……」
わたしは彼女の手を引っぱって早苗ちゃんのところに戻った。
始業のチャイムが鳴っていたから、廊下にはもう誰もいない。
「早苗ちゃん!」
そこに寝かされている彼女を見て、わたしはさっと血の気が引いた。彼女は目を閉じたまま、じっと動かなくなっていたからだ。もしも、早苗ちゃんに何かあったらどうしよう。いやだよ、そんなの……。せっかくできたお友達なのに……。
「薬は何とか飲んでくれました。でも、意識が……。岸谷先生、念のため、救急車をお願いします」
武本先生が厳しい表情で言った。
「わかりました」
岸谷先生も真剣な顔でうなずき、職員室に向かった。
わたしは、心配のあまり、自分の心臓がどんどん早くなるのを感じた。
「早苗ちゃん……」
わたしは彼女の手を掴んで名前を呼んだ。だけど、まるで反応がない。
「大丈夫だよ。ちゃんと呼吸はしているし、心臓も動いている。彼女は大丈夫だから……」
そう言うと、先生はわたしの手に自分の大きな手をかぶせて力強く握った。
「きっと大丈夫だ」
先生のその言葉だけで安心できた。
それからすぐに救急車がやって来て、早苗ちゃんは病院に運ばれて行った。